~その疑問、解決します~
学習お助けQ&A

社会【歴史】

原始~古代(~平安時代)

ギリシャとポリス、ローマの違いがわかりません。

現在のギリシャがある地域では紀元前8世紀ころから、経済的・文化的発展が起こりました。これを一般的に“古代ギリシャ”や“古代ギリシャ文明”などと呼びます。
このころのギリシャは現在のような国家ではなく、このあたりの地方や地域がギリシャと呼ばれていた、という意味合いでとらえましょう。

この古代ギリシャ文明の担い手が、「ポリス」と呼ばれる都市国家です。現在でいう都市が一つの国として成立していました。現在の国家と比べると規模は小さく、古代ギリシャには1000以上のポリスが存在し、国の制度などはポリスごとに決められていました。
これらポリスの間ではいつも争いが絶えず、ギリシャ全土が統一されることはありませんでしたが、現在のオリンピックのお手本となったオリンピアの祭典の期間中は、いっさいの戦いが中止されました。
※古代ギリシャ以外の都市国家はポリスとは言わないので、注意しましょう。

たくさんあった古代ギリシャの都市国家(ポリス)のうち、最も代表的で強大だったのはアテネです。紀元前5世紀ころには成人男性の市民が集会で将軍や役人を選ぶなど、政治に直接参加する民主政治が行われていました。アテネの他には、スパルタやテーベというポリスが有名です。

このように古代のギリシャにおけるたくさんの都市国家をポリスと言い、そのうちの一つでとても強かったのがアテネなのですね。

しかし紀元前4世紀になると、ポリス間の争いや現在のトルコからイランにかけての地域にあったペルシャと呼ばれる大国との争いでしだいにポリスの力が衰えていき、現在のギリシャ北部周辺にできたマケドニアと呼ばれる国が勢力を拡大して、フィリッポス2世という人が王の時、すべてのポリスを制圧して、ギリシャを統一しました。
フィリッポス2世亡き後、マケドニアの王になったのが息子のアレキサンドロス(アレキサンダー)大王で、現在のエジプトやトルコ、イランやイラクなどを含めた地域を征服し、ギリシャの文化が、エジプト文明とメソポタミア文明が融合したオリエント文化と合わさってヘレニズム文化が生み出されました。ヘレニズム文化の影響はその後、インドと中国を経由して日本にも届きました。

さてアレクサンドロス大王の死後、大王が征服した地域の支配をめぐる争いが起きていた紀元前3世紀ころ、ギリシャの西、アドリア海を挟んだイタリア半島では、ローマという都市国家がイタリア半島を統一し、国家となりました。
現在ローマというとイタリアの首都ですが、このころのローマは“古代ローマ”とも呼ばれ、紀元前1世紀になると地中海沿岸を統一して(つまり上で挙げたギリシャやエジプトも含みます)、皇帝が支配するローマ帝国となりました。ローマ帝国はしだいに領土を拡大し現在の西ヨーロッパを支配したので、キリスト教を国教とすると、現在のヨーロッパ全土にキリスト教が広まりました。

以上のように、地中海では紀元前5世紀ころアテネを中心とする古代ギリシャが発展しましたが、マケドニアによるギリシャ統一、そしてアレクサンドロス大王の死後、紀元前1世紀ころローマが主導権を握り、ついには支配したということですね。

「大宰府」の漢字は「太宰府」でもいいですか?

「大宰府」は、九州地方の政治・外交・防衛のために置かれた役所です。これは、現在の福岡県「太宰府」市にありました。最初は「大宰府」とよばれていたものが、時間が経つうちに「太宰府」とかわっていったようです。
役所の名称を問われた場合には「大宰府」と答え、現在の地名を問われるようなことがあれば「太宰府」と答えるのが正確です。

太陽暦と太陰暦の違いは何ですか?

太陽暦とは、地球が太陽のまわりを1周する時間を1年としてつくられた暦です。1年を365日としますが、4年ごと(うるう年)に366日になります。日本では1872年に導入され、現在私たちが使っている暦です。

一方、太陰暦は月の満ち欠けを基準としてつくられた暦です。月の満ち欠けの1周期は、平均で約29.53日なので、太陰暦では1か月が29日の「小の月」と30日の「大の月」を6回ずつ組み合わせて1年(約355日)としました。
ただし年が経つにつれて、実際の季節と11日ずつずれてしまうため、定期的にうるう月を設け、その年だけ1年を13か月として調整することもありました。

旧石器時代、新石器時代、縄文時代の違いがよくわかりません。

旧石器時代と新石器時代は世界史の時代区分で、日本史の時代区分は旧石器時代のあと、縄文時代、弥生時代と続きます。つまり日本史には、新石器時代はありません。

世界史では、旧石器時代・新石器時代というように、使用されていた「石器」による区分が使われることが一般的です。
旧石器時代は打ち欠いて作った打製石器を使った時代、そして新石器時代は表面を磨いて形を整えた磨製石器を使用した時代で、農耕が行われるようになった時代です。その後は「金属器時代(青銅器時代と鉄器時代に分ける場合もあります)」が続いています。

一方、日本の歴史における原始社会の時代区分では、縄文時代・弥生時代など「土器」の種類による区分を使うことが一般的です。
縄文時代は、磨製石器や縄文土器を使用していた時代で、狩猟・採集によって食料を確保していました。弥生時代は磨製石器や弥生土器を使っていた時代で、農耕(稲作)が行われるようになりました。

世界史の区分から考えると、磨製石器を使っていた縄文時代、弥生時代は新石器時代にあたるのですが、縄文時代のとき日本では家畜の飼育や農耕は行われていなかったため、この点では新石器時代の特徴とは少し違っています。弥生時代に入ってようやく家畜や農耕が行われるようになり、世界史の新石器時代の特徴に当てはまるのです。
これらのことから、世界史の新石器時代と区別して、日本史では旧石器時代の後は縄文時代、弥生時代とされています。

時代区分は、どのような基準で時代を分けるかによって、いくつかの方法があるということなのですね。

最も古い人類はアウストラロピテクスですか? サヘラントロプス・チャデンシスですか?

アウストラロピテクスもサヘラントロプス・チャデンシスも、どちらも猿人に分類されます。人類の分類で見ると、猿人・原人・旧人・新人の中で最も古い人類が猿人です。

「サヘラントロプス・チャデンシス」は、2001年にアフリカ中部のチャドで発見された猿人の頭骨化石で、今から約700万年前のものと考えられています。頭骨に直立二足歩行をしていたことを示す特徴があったため、現在の教科書ではサヘラントロプス・チャデンシスを最も古い人類として記述するものが多くなっています。
これに対し「南方の猿」を意味する「アウストラロピテクス」は、長い間最古の人類として教科書に載っていた猿人です。1924年以降、南アフリカや東アフリカの各地で化石人骨が発見されており、約400万年前の猿人と考えられています。

実は人類の祖先を巡る学説はまだ確定しておらず、考古学的な新発見とそれに関する研究が進むたびに、なんらかの変化を続けています。
ですので最も古い人類については、学校の授業や教科書で学習したほうを覚えておけばいいでしょう。

『魏志』倭人伝の『 』は必要ですか?

『 』(または「 」)は、それが書物名や作品名であることを表す記号です。

『魏志』は中国の正史『三国志』のうちの魏について記したもので『魏書』ともいいます。この30巻のうちの「東夷伝」の倭人条で、女王卑弥呼が30あまりの国を従えていたと記されていますが、『魏書』東夷伝倭人条と言わずに、一般に『魏志』倭人伝と呼ばれています。

魏志倭人伝は『魏志』倭人伝と表記することが多くなっていますが、「魏志」倭人伝や「魏志倭人伝」としている教科書もあります。学校でお使いの教科書通り、学校で習った通りに覚えておきましょう。

大和政権、ヤマト王権、大和朝廷のどれが正しいですか?

3世紀後半から4世紀ごろにかけての、大和の有力な王を中心とした諸豪族の連合政権を大和(ヤマト)政権、または大和(ヤマト)王権といいます。「やまと」は漢字だったり、カタカナだったりします。大和朝廷という場合もあります。
どれも同じ意味ですので、学校の定期テストや入試では教科書通り、学校で習った通りに答えればいいでしょう。

中世(鎌倉時代・室町時代)

馬借と問の違いは何ですか?

()(しゃく)(とい)は、どちらも運送業者ですが、陸上か水上かという点が大きく違います。馬借は陸上の運送、問は水上の運送に携わっていました。また、問は運送業だけでなく、倉庫業も営んでいたことも馬借とは違います。

馬借とは、文字通り、馬の背によって、陸路で物資を輸送した陸上の運送業者です。大津・坂本・淀・木津のような水陸交通の要地を拠点として、年貢や商品を京都や奈良などへ搬入しました。

問は主に船を用いて、物資を輸送した水上の運送業者・倉庫業者です。河川や港の近くの都市に居住し、荘園から徴収した年貢や商品の保管・輸送にあたった総合運送業者です。(とい)(まる)とも呼ばれます。

徳政令に「永仁の」は必要ですか?

徳政令は鎌倉時代から室町時代にかけて、幕府や朝廷などが、借金を帳消しにするために出した法令です。
徳政令の「徳政」とは、「徳のある政治」という意味で、もともと新しい天皇が即位する際や元号が改められた時などに、(たい)(しゃ)(罪人の罪を軽くする)や貧民の救済活動が行われることなどを指していました。

1297年((えい)(にん)5年)に出された「永仁の徳政令」は、最初に出された徳政令といわれるもので、特に重要な徳政令だといえます。
これは、鎌倉幕府が御家人の困窮を救うために出した徳政令で、質に入れたり売ったりした領地を、御家人がただで取り戻せるようにしたものです。これによって、一時的には御家人は経済的に救われました。

つまり徳政令は何度も出されていますが、このうち最初に出されたのが「永仁の徳政令」だということになります。

二期作と二毛作の違いは何ですか?

「二期作」は、同じ耕地で1年間に2回、同じ作物を続けて栽培することをいいます。
一般的には、米を2回作る例が多いです。

これに対し「二毛作」は、同じ耕地で1年間に2種類の作物を続けて栽培することをいいます。鎌倉・室町時代には、春から秋にかけては米の栽培を、秋から春にかけては麦を栽培する二毛作を行う地域が見られるようになりました。

百姓一揆、土一揆、国一揆、一向一揆の違いを教えてください。

土一揆、国一揆、一向一揆の3つは室町時代、百姓一揆は江戸時代に発生した一揆で、一揆の主体となる者や、時代により、それぞれ性格が異なります。

土一揆は、室町時代中期以降、畿内とその周辺地域で発生した()(みん)の抵抗運動です。土民とは、本来はその土地に住む人を意味しますが、室町時代には農耕に従事する農民を中心に、運送業者などを含む一般庶民のことを指すのに使った支配者層側の言葉です。
土一揆に参加した土民の要求は、荘園領主・守護大名に対しては年貢減免の要求、酒屋・()(そう)など高利貸業者と結ぶ幕府に対する徳政要求など、経済闘争が主でした。徳政とは、借金を帳消しや破棄する行為のことです。
土一揆で有名なのは、1428年に起こった正長の土一揆です。

国一揆とは、国人と呼ばれた武士である在地の領主層を中心に、土民と称される地域の農民も広く組織に組み込んだ一揆です。守護大名らの支配から在地の領主権を守るために組織されました。国一揆という名称ですが、一国全体をさしているとは限りません。
国一揆で有名なのは、1485年に、南山城3郡の国人・土民らが起こした山城国一揆です。

一向一揆は、室町時代から戦国時代に起こった一揆です。一向一揆の「一向」とは「一心一向に阿弥陀仏に()()する」ことが名称の由来となった浄土真宗の異称です。一向一揆は、浄土真宗の本願寺派の門徒を中心とした一揆です。一揆は門徒の農民・国人・僧侶の連合体で、近畿・北陸・東海地方の守護大名・戦国大名らと抗争しました。
室町時代の加賀国を支配した加賀の一向一揆、戦国時代の織田信長に抵抗した伊勢長島の一向一揆、徳川家康に抵抗した三河一向一揆が有名です。

百姓一揆は、江戸時代の百姓による集団での抵抗運動です。過重な年貢負担、村役人の不正、高利貸しの圧迫などに対して、百姓は集団で抵抗しました。百姓一揆の一般的な方法は、百姓が大挙して城下などへ押し寄せ、領主側に要求を直接に訴えるやり方でした。村を単位として結集し、時には鎌などの農具を武器として携行しました。また、不参加村の村役人や、領主の政策に加担した高利貸しや、買い占めを行った豪商・豪農の家の打ちこわしが付随して起こることもありました。

近世(安土桃山時代・江戸時代)

キリスト教の宗派の、正教会、プロテスタント、カトリック教会の区別の仕方がよくわかりません

まずこの3つの宗派で最も歴史が古いのは、カトリック教会です。
カトリック教会は、キリスト教がローマ帝国の国教となったときからの宗派で、ローマ教皇を頂点とし、現在は主に西ヨーロッパや中南米を中心に信仰されています。フランシスコ・ザビエルが所属した「イエズス会」は、このカトリックの一会派です。

次に正教会は1054年にカトリックから分裂した宗派で、主に東ローマ帝国(ビザンツ帝国とも言います)の支配や影響を受けた東ヨーロッパで信仰されてきた宗派です。「ギリシャ正教」や「ロシア正教」が有名です。

最後にプロテスタントは、16世紀に起こった、ルターやカルバンが始めた宗教改革によってできた宗派で、カトリック教会に対抗する存在(カトリックに抵抗する者という意味からプロテスタントと呼ばれます)で、聖書に信仰のよりどころを置く教えを中心としています。3つの中では一番新しい宗派です。

ちなみに聖職者について、カトリック教会と正教会は「神父」と言いますが、プロテスタントでは「牧師」と言います。

本百姓と地主、水呑百姓と小作人の違いは何ですか?

本百姓と地主、水のみ百姓と小作人について、それぞれの用語の意味やさす範囲を確認しましょう。

【小作人】
他人の土地を借りて農業を行い、その代わりに小作料を払っている者のこと。

【地主】
貸せるほどの土地を持ち、土地を貸す代わりに小作料を得ている者のこと。

「小作人」「地主」は、江戸時代だけでなく、他の時代でも使われる用語です。たとえば、明治時代以降も「小作人」「地主」という言葉は登場します。

一方、江戸時代の身分である百姓のうち、「本百姓」・「水のみ百姓」は、次のようになります。

【本百姓】
江戸時代において、自分の土地を持ち、年貢を納める義務があった百姓のこと。中には土地を集めて地主になる、豊かな者もいました。ただし、すべての本百姓が地主になれるほど豊かであったというわけではありません。

【水のみ百姓】
江戸時代において、自分の土地を持っておらず、地主に土地を借りて農業を行っていた百姓。小作人の一種と考えるとよいでしょう。

錦絵と浮世絵の違いは何ですか?

浮世絵とは江戸時代の風俗絵で、特に遊女や役者などを描いた絵です。当初は肉筆画(筆で描く絵)でしたが、元禄文化の頃、菱川師宣によって木版画の技術が生まれると、木版画が主流となりました。
菱川師宣が確立した浮世絵の木版画は、墨で刷り、あとから筆で色をつける方法で描かれていました。

その後、徐々に浮世絵の木版画の技術が向上し、化政文化の頃、鈴木春信によって、墨はもちろんのこと、墨以外のたくさんの色も使って刷り、あとから筆で色をつけない木版画(錦絵)が開発され、主流となっています。

つまり錦絵は浮世絵の一種ですが、元禄文化の頃の墨で刷った後、筆で色をつける木版画を一般的に「浮世絵」といい、化政文化の頃の多色刷りの木版画で、後から筆で色をつけないものを一般的に「錦絵」といい、区別して呼ばれています。
「多色刷り版画を何というか」と「多色刷り」であることを明示して問われているなら、「錦絵」と解答しなければなりません。このような問題で「浮世絵」と答えると、△もしくは×とされるので注意しましょう。

元禄文化と化政文化の違いを教えてください。

元禄文化と化政文化は、同じ項目を比較する形で整理しておくと分かりやすくなります。
図録などで作品の写真も確認しておくと、より理解が深まりますよ。

元禄文化

時期 5代将軍徳川綱吉の頃
(17世紀末~18世紀初め)
地域 京都・大阪など(かみ)(がた)が中心
担い手 大商人など上層町人が中心
特色 はなやかで明るく、
現実的、合理的

▼主な分野と人物、作品など

<文学・芸能>

浮世草子 …  井原西鶴
『好色一代男』
『日本永代蔵』
『世間胸算用』
など
人形浄瑠璃 …  近松門左衛門
『曽根崎心中』
など
俳諧 …  松尾芭蕉
『奥の細道』
歌舞伎 …  市川団十郎、
坂田藤十郎
など

<絵画>

装飾画 …  尾形光琳
燕子花(かきつばた)図屏風』
『紅梅白梅図屏風』
など
浮世絵
(木版画により普及)
…  菱川師宣
『見返り美人図』
(注:この作品は版画ではなく肉筆)

<工芸>

友禅染の技法が完成 …  宮崎友禅

<学問>

儒学(特に朱子学)が奨励された

化政文化

時期 11代将軍徳川家斉の文化・
文政年間(19世紀前半)
地域 江戸を中心に全国に広まった
担い手 大商人だけでなく、一般民衆も
娯楽として楽しむようになった
特色 円熟しているが退廃的、
皮肉や風刺を含む

▼主な分野と人物、作品など

<文学・芸能>

小説 …  十返舎一九
『東海道中膝栗毛』、
式亭三馬
『浮世床』、
滝沢馬琴
『南総里見八犬伝』
など
俳諧 …  与謝蕪村、小林一茶
川柳、
狂歌
…  世の中への皮肉、風刺
歌舞伎 …  庶民の娯楽として流行。
『東海道四谷怪談』など

<絵画>

浮世絵 …  多色刷り版画の錦絵が普及
美人画:喜多川歌麿
役者絵:東洲斎写楽
風景画:
葛飾北斎
  『富嶽三十六景』、
歌川(安藤)広重
  『東海道五十三次』

<学問>
朱子学以外の新しい学問が登場。社会を批判する思想も生まれた。

国学 …  本居宣長
『古事記伝』
蘭学 …  杉田玄白らによる翻訳
『解体新書』

伊能忠敬が日本全国を実測して地図を作成
平賀源内、シーボルトなど

座と株仲間の違いは何ですか?

座と株仲間は、どちらも商工業者の同業者組合のことですが、まず時代が違うということを押さえておいてください。
座は朝廷や寺社・貴族などに労役や営業税、株仲間は幕府や諸藩に(みょう)()(きん)を納め、営業の独占などの特権を得るという点は同じです。

座は、もともと「座る場所」という意味があり、そこから転じて、人々が集まるところ⇒商工業者の同業者組合、という意味にもなっていきました。座は、平安時代に生まれ、鎌倉・室町時代に発達しました。寺社や公家の保護を受けるかわりに、利益の一部を彼らに納め、販売の独占権をもつようになりました。しかしながら、織田信長による楽市・楽座などで、戦国時代に廃止されました。
座は、同業者の集まりですから、扱う商品や地域によって多数の座ができていました。例をあげると、「油座」「材木座」「綿座」「(こうじ)()」「塩座」などです。

これに対して、株仲間は江戸時代の同業者組合のことをいいます。株仲間は、享保の改革の時代に、物価を安定させることを目的に幕府の公認となりました。そして田沼意次は大商人を優遇し、株仲間を奨励しましたが、一部の役人や商人が利益をもとめ、わいろが横行して政治がみだれました。
そして、水野忠邦が行った天保の改革で、株仲間を解散する命令が出されました。これは、株仲間の存在によって流通がさまたげられることなどが、物価の上昇につながっていると考えられたからです。しかしながら、このことによる効果はなく、のちに再び株仲間が結成されることになりました。最終的に、株仲間が廃止となったのは、明治時代になってからのことです。

座と株仲間のポイントとして、座は鎌倉時代・室町時代の同業者組合で、楽市・楽座で廃止され、株仲間は江戸時代の同業者組合で水野忠邦が解散の命令を出した、ということを覚えておきましょう。

東インド会社とはどんな会社ですか?

東インド会社はイギリスやオランダの他、フランス、デンマーク、スウェーデンなどのヨーロッパ諸国が、香辛料を輸入するためと、植民地を拡大するためという二つの目的を達成するために、インドや東南アジアに設立した貿易会社のことです。
それぞれ、イギリス東インド会社、オランダ東インド会社、フランス東インド会社などと呼びますが、一つの会社ではなく、国ごとに東インド会社を経営していました。同じ「東インド会社」という名称なのでわかりにくいかと思いますが、別々の会社です。

イギリスの東インド会社は、1600年にエリザベス1世の特許状によって設立された貿易会社で、主にインド・中国と貿易を行っていました。1858年にインドで大反乱が起こり、解散しました。

オランダの東インド会社は、1602年にオランダ国内の複数の会社が連合して設立した貿易会社で、世界初の株式会社として有名です。東南アジアのジャワ島に拠点を置きました。オランダの東インド会社は、イギリスの東インド会社やフランスの東インド会社の競争についていけず、1799年に解散しました(解散後も日本との交易は続きました)。

近現代(明治時代~)

疎開、学童疎開、集団疎開の使い分けを教えてください。

疎開とは, 日本政府が第二次世界大戦中,空襲・火災などによる損害を少なくするため,都市などに集中している官庁・軍需工場・民間企業・住宅家屋などを地方に分散させたことをいいます。

学童疎開とは,第二次世界大戦の末期に,米軍の本格的な本土空襲に備えて,東京,大阪,名古屋,横浜など大都市の国民学校初等科児童を強制的に郊外の農山村に移動させ,戦火を避けさせたことをいいます。

集団疎開も学童疎開と同じように使われることが多いですが,厳密に言うと,学童疎開の方法の一つが集団疎開です。学童疎開が始まった頃は,縁故疎開といって,個々の家庭が田舎の親戚や知り合いの家に子どもを疎開させていました。しかし,それができない子どももいるため,学校単位でまとめて田舎の村などに疎開させるようにしたのが集団疎開です。

同盟と協商の違いがわかりません。

「同盟」とは、軍事同盟に代表されるように、同盟を結んだ国同士で何かあった時には助け合う(=第三国から攻撃された時に軍事的な援助を行う)ことを公式文書を取り交わして約束するものです。
ある共通の目的のために協力するという内容で、国家間の正式な契約が行なわれたものです。

これに対し「協商」は国家間で非公式に、特定の問題についての協力関係を約束したものなので、同盟よりもゆるやかな親善関係になります。同盟のように軍事的に相手国を援助する義務はありません。
「協商」の「商」の文字のため、商業に関係するように感じるかもしれませんが、「商」という漢字には「諮(はか)る」「相談する」という意味があります。ここから「協商」がお互いに相談して協力を約束するという意味になることが理解できるのではないでしょうか。

国際連盟と国際連合の違いを教えてください。

「国際連盟」は第1次世界大戦後の1920年、アメリカ大統領ウィルソンの提唱を受けて実現した世界初の国際平和機構です。42ヵ国の参加で発足し、本部はスイスのジュネーブに置かれました。
運営の中心となる常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本の4ヵ国で、提唱国のアメリカは連邦議会上院の反対で加盟しませんでした。さらに、敗戦国のドイツと社会主義国のソビエト連邦は、当初は参加国から除外される(←後年に加盟)など、大国が参加しなかったため、国際平和を守るという目的に対して困難を伴い、結果的に第2次世界大戦の勃発を抑えることができなかったのです。

一方「国際連合」は第2次世界大戦の反省を踏まえて、国際連盟に代わる新しい国際平和機構として設立されたものです。1945年10月に51ヵ国の参加で発足し、本部はアメリカのニューヨークに置かれました。
全加盟国による議決が行われる総会もありますが、国際平和と安全に関して中心的な役割を担うのが安全保障理事会です。安全保障理事会は、アメリカ・イギリス・フランス・ソビエト連邦(現在はロシア連邦)・中華人民共和国(発足当初は中華民国)の五大国が常任理事国として強い権限を持ち、議決における拒否権を有しました。任期2年の非常任理事国は10ヵ国で、国連総会で選出されます。
国際平和維持のための強権発動としては、国際連盟で規定されていた経済的制裁の他に、国連軍を組織しての武力制裁が認められているのが特徴です。

五・四運動と三・一独立運動をよく間違えます。覚え方はありますか?

五・四運動と三・一独立運動は同じ1919年に中国と朝鮮という隣同士の国でそれぞれ起こった反日運動です。

三・一独立運動は、五・四運動より先に朝鮮で起こった、日本の植民地支配からの独立を目指した反日運動

五・四運動は、三・一独立運動の2か月後中国で起こった、日本の二十一か条の要求の撤回を求めた反日運動

と、整理して覚えましょう。

中国と台湾の関係を教えてください。

現在「中国」とよばれているのは中国共産党が建てた国で、正式には「中華人民共和国」といいます。
これに対し、中華人民共和国ができる前の中国で力を持っていたのは、蒋介石が率いる国民政府でした。

それでは、中国共産党と国民政府の2つを軸に、辛亥革命以降の動きを整理しながら、現在の中国と台湾の成り立ち、さらには国際社会における関係を見ていきましょう。

1912年、中国では辛亥革命によって清が倒れ、「中華民国」が成立したものの、その後の国内は諸勢力が乱立してばらばらの状態でした。第一次世界大戦中に日本が中国に突きつけた二十一ヵ条の要求に反対する人々は、1919年に五・四運動を起こします。この運動から出た指導者が孫文です。孫文は中国国民党(=国民党)をつくり、中国国内の統一と改革を目指すようになりました。
一方、同じ時期のロシア革命の成功に影響された人々は中国共産党(=共産党)を結成して、社会主義による中国統一を図りました。

国民党と共産党はどのような政府や社会をつくるかという点で激しく対立していたのですが、日中戦争の激化に伴い、中国を守るため、協力して日本軍に抵抗するようになりました。
このころの中国の代表者は、孫文の死後に国民党を率いた蒋介石で、アメリカ・イギリスなどと第二次世界大戦の終戦に向けた話し合いも行っています。

1945年8月に日本が無条件降伏すると、日清戦争以降日本の植民地だった台湾が中国に返還されました。台湾が国民党の勢力下に入ったのはこの時からであることを押さえておきましょう。

さて1945年10月に発足した国際連合に参加した中国とは、国民党が指導する中国(つまり「中華民国」)でした。しかし中国国内では、日本という共通の敵がいなくなったことで、国民党と共産党が再び対立し、内戦が続いていました。
やがて農民の支持を得た共産党が国民党をしだいに圧倒し、とうとう1949年10月に毛沢東率いる共産党が「中華人民共和国」を建国すると、国民党は台湾へ逃げ、台湾のみを勢力範囲として、自分たちが正当な中国であることを主張しました。

この結果「中国」を名乗る国が2つになりましたが、国際社会では国家の正式な外交権を行使できる(=「代表権を持つ」)政府は、1つの国家に1つしか認められません。したがって、この時点で中国を代表する政府といえるのは、国際連合に正式加盟している国民党の台湾政府でした。

中国大陸を押さえた共産党の中華人民共和国は社会主義陣営に属していたので、冷戦下ではアメリカと仲が悪かったのですが、中華人民共和国は同じ社会主義陣営のソ連と領土問題をめぐり対立したこと、アメリカはベトナム戦争が長引いていたので敵側の北ベトナムを支援していた中華人民共和国と交渉したかったことなどから、1971年ころから両国は仲良くする方向へ方針転換しました。
こうしてアメリカが中華人民共和国の方を中国と認めたことにより、国際連合でも「中華人民共和国を中国の代表政府とする」という決議が採択され、中華人民共和国の国連加盟が認められました。これは同時に、台湾の国民政府が国際社会における中国代表という立場を失うことを意味していました。

このようなアメリカの方針転換は、日本の外交にも大きな影響をもたらします。それまでは台湾の国民政府を中国として外交関係を持っていた日本ですが、1972年に日中共同声明を出して中華人民共和国を中国として承認し、国交を正常化しました。
わかりやすく言えば、日本は中華人民共和国の方を正式な中国と認めて外交関係を持つことにしたので、正式な中国ではない台湾の国民政府との国交を断絶した、ということになります。

とはいえ、実際には日本と台湾の間では長年にわたって築いた経済的な関係が深く、観光など人的な交流も活発に行われてきました。政治的な事情で表向きは「国交断絶」という形にはなったものの、日台間の実務レベルでさまざまな努力が重ねられた結果、実を取る形で決着が図られ、現在に至るまで人やモノの往来や経済関係は続いているのだと理解してください。

共産主義と社会主義は何が違うのですか?

確かに、この二つの用語の違いは分かりにくいものがあります。より違いが分かりやすくなるために、「資本主義」「社会主義」「共産主義」の3つの違いを説明しようと思います。

まず「資本主義」についてです。資本家(生産手段をもつ人、企業など)が労働者に賃金を払いつつ働かせることで商品を生産し、利潤を得るという仕組みになっています。資本主義では、自由に利益を追求してもよいという考えがもとになっています。
例えば資本主義国家では、物価に関して国が関与するのではなく、企業が自由に価格を設定することができます。企業同士で活発な競争が生まれて経済が回りやすい反面、貧富の差を拡大してしまうという問題点もあります。

これに対し「社会主義」とは、生産手段を国や地方など社会全体の共有とし、富を公平に分配しようとする思想・運動のことをいいます。
自由競争があるものの、国が経済の大部分に介入する政策であるため、国によってお金がコントロールされることになります。私有財産が制限されるのも特徴です。
失業などはなく安定した賃金を得られることになります。しかし、給料は仕事の成果によらず一定であるためモチベーションが上がらないという問題点などがあります。

最後に「共産主義」についてです。共産主義は、生産手段や生産物をすべて共有することによって貧富の差のない社会を築こうとする思想・運動です。自由競争そのものがないため価格を決めるのは完全に国になります。私有財産は完全に禁止されています。

「社会主義」と「共産主義」の違いがだんだん分かってきたでしょうか。ここでさらに両者の違いを見てみます。

社会主義は労働に応じて財を得るのに対し、共産主義は必要に応じて財を得ます。また社会主義は私有財産をある程度は認めていますが、共産主義は認めていません。
このように社会主義とは、共産主義に向かう一歩手前の段階で、共産主義ほど厳しくない状態であることがわかります。

以上のように、社会主義と共産主義は紛らわしいものですが、資本主義の反対に社会主義、社会主義の延長上に共産主義がある、というおおまかな解釈をまずは覚えるようにしていくといいでしょう。

ただ中学生の間は、ほぼ同じと考えてよいです。学校で習ったほうをまずは覚えておきましょう。「社会主義」のところを「共産主義」で答えてもOKです。

なお、共産主義を達成した国は歴史上存在しません。社会主義国家は最終的には共産主義を目指していましたが、挫折や崩壊などで共産主義を達成することはありませんでした。

韓国統監府と朝鮮総督府の違いは何ですか?

韓国統監府と朝鮮総督府は、どちらも日本が朝鮮半島を統治するためにつくった機関です。

韓国統監府は、1905年の第二次日韓協約締結時から1910年の韓国併合までの機関の名称、朝鮮総督府は、1910年の韓国併合から1945年の日本の敗戦までの機関の名称です。

日本は日露戦争に勝利し、ポーツマス条約によって日本の韓国に対する優越権をロシアに認めさせました。日本は韓国を保護国として扱い、内政や外交を指揮するために、1905年、韓国統監府を置きました。初代統監は伊藤博文でした。

韓国の皇帝は退位、軍隊も解散させられ、日本による韓国の植民地化の動きが強まり、韓国では抵抗運動が広がりました。1909年、ハルビンで伊藤博文が民族運動家である安重根に射殺されます。

このことを受けて、1910年、日本は韓国併合によって韓国を日本の植民地とし、朝鮮半島全土を日本の支配下に置きました。このとき、韓国統監府に代わって設置したのが朝鮮総督府です。初代総督は寺内(まさ)(たけ)でした。1945年、朝鮮総督府は日本の敗戦で廃止されました。

「民撰議院設立建白書」と「民撰議院設立の建白書」、どちらが正しいの?

「民撰議院設立建白書」も「民撰議院設立の建白書」も、どちらも正しいです。

民撰議院設立建白書は当時の立法機関である左院に提出されましたが、「民撰議院設立建白書」という表題はありませんでした。その内容から提出後に名づけられましたので、どちらでも間違いではありません。
授業で習った通りに、または教科書に書かれている通りに覚えておけばいいでしょう。

ニューヨーク株式市場の株価が大暴落したことが、なぜ世界恐慌につながるのかがわかりません。

世界恐慌に至るまでの流れを見ていきましょう。

世界恐慌前のアメリカ経済の状況
1920年代前半はアメリカ経済が繁栄し、世界経済を支えている状態でした。世界中のお金がアメリカに集まり、アメリカは世界各国にお金を貸し、アメリカ国内では自動車や家電製品が普及して、大量生産・大量消費社会が成立していました。このように経済が繁栄してアメリカ国内ではお金が余っている状態だったので、人々はより多くの利益を求めて、株式や土地取引などの投機にお金を使うようになりました。

株価の暴落
しかし熱狂的ともいえる投機で上がり続けてきた株価は、過剰な設備投資や産業の先行きを不安視して1929年10月に大暴落しました。現実の株価が一気に下がると、不安になった人々が株を早めに売って現金に換えようとするので、売り注文が集中してさらに株価が下がる悪循環になります。このため株価は1ヶ月ほどで半分近くにまで暴落し、株を買った時より安い値段で売ることになるので人々の株の資産は激減してしまいました。

恐慌発生後のアメリカ国内の状況
財産が減った人々は、生活防衛のためによけいなモノを買わなくなります。モノが売れないので、企業は賃金引き下げや解雇を行い、失業者が増大しました。
事態の悪化に対処するため、アメリカの銀行や企業は資金を国内に集中させようとしたので、それまでヨーロッパ諸国に貸していたお金が減らされ、アメリカ国内にとどまるようになりました。

世界への波及
アメリカは第一次世界大戦の敗戦国であるドイツにもお金を貸していたのですが、ドイツ向けの貸し出しが減ったためにドイツの経済復興が沈滞したのです。このことはドイツから戦争賠償金を受け取るはずのイギリスやフランスの経済にも影響し、やがてヨーロッパ全体に不況が広がると、アメリカからヨーロッパ向けの輸出も不振に陥りました。こうして、アメリカの株式暴落から始まった不況は連鎖的に全世界に広がり(社会主義国のソ連は除く)、世界恐慌と呼ばれる状態になったのです。

学習法・全般

語句は、漢字で書かないとバツになるのですか?

高校入試では、教科書に漢字で記されている人名や用語をひらがなまじりやひらがなのみで答えた場合、不正解となったり減点の対象となる可能性があります。
万全を期すためにも、漢字で習う用語は漢字で書けるようにしておきましょう。

人名に付いている「・」と「=」はどのように使い分けるのですか?

《例》チンギス・ハンとチンギス=ハン、フビライ・ハンとフビライ=ハン、フランシスコ・ザビエルとフランシスコ=ザビエル、モヘンジョ・ダロとモヘンジョ=ダロ など

「=」や「・」は、外国の人名や名称を日本語で表す場合、外国語の語句の区切りである単語と単語の間の空間をはっきりさせるために使われる記号です。
「=」と「・」のどちらを使うかということについては、はっきりした決まりがあるわけではありませんので、どちらを使用しても問題ありません。

教材によって表記の違う用語はどちらで答えればいいですか?
《例》ティグリス川とチグリス川、ハンムラビ法典とハムラビ法典、ヒンドゥー教とヒンズー教、リンカーン大統領とリンカン大統領、ラクスマンとラックスマン、ガンディーとガンジー、ペルシャ湾とペルシア湾 など

日本では、外国語の人名や地名・語句などは、もとの発音に近いカタカナをあてて表記します。
しかしながら外国語の発音をそのまま正確にカタカナで表すことができないので、どのようなカタカナをあてるかということについては、教科書や参考書によっても違ってくるのです。
そのため「ティグリス川とチグリス川」「ハンムラビ法典とハムラビ法典」など、教科書や参考書によって表記が違う人名や語句・地名がたくさんあります。
基本的にはどちらを答えても正解となりますので、安心してくださいね。

年代を世紀に直せません。

世紀の数え方は、西暦1年から100年を紀元1世紀(A.D.1世紀)、101年から200年までが紀元2世紀(A.D.2世紀)…というように数えます。

「年代」から世紀を考える場合には、基本的には、まず「下2ケタを取り除いた形にし、それに1を足す」と考えるといいでしょう。
たとえば1192年であれば、下2ケタをとりのぞいて「11」とし、それに1を足して「12世紀」となります。2017年ならば、「20+1=21世紀」です。

ただし注意しなければならないのは、下2ケタが「00」となっている場合です。
紀元100年の場合には1世紀となることからもわかるように、下2ケタが「00」の場合には、最後の「足す1」をせず、「下2ケタを取り除いただけ」にします。
たとえば1600年であれば、下2ケタを取って「16世紀」となりますね。

逆に「世紀」の方から年代を考える場合には「1を引いてから、00をつける」、それから「始まりの年号の下1ケタは1、最後の年の下1ケタは0」と覚えておきましょう。
たとえば21世紀であれば「21-1=20」、「00」をつけると「2000」、最初の年は1がつくから「2001」、最後の年は「2100」です。

混乱してしまったら「1年~100年は1世紀」「2001年~2100年が21世紀」ということを思い出して、そこから考えなおしてみましょう。

ちなみに、紀元前についても、考え方は全く一緒です。
紀元前1年から紀元前100年までが紀元前1世紀(B.C.1世紀)、紀元前101年から紀元前200年までが紀元前2世紀(B.C.2世紀)となります。

年代並べ替え問題が苦手です。

同じ時代に起こった出来事を選んだり、出来事が起こった順番を問う問題に対応するためには、歴史の流れをつかむことが大切です。
「原因・結果・影響」を意識し、「なぜ、そうなったのか」「その結果、どうなったのか」ということを常に頭に置きながら、学習しましょう。

対策としては、「教科書を丁寧に読む(できれば音読)」「年表をまめにチェックする」「歴史マンガを読む」といった方法が挙げられます。

歴史の教科書は、政治・文化・外交などについて、時代ごとにまとめられているので、流れがわかりにくいようなら、まず政治について書かれた部分だけを通して読み、その次に文化について、次に外交について、というように順番に通して読んでみるとよいですね。
歴史マンガを併用しながら教科書を読み込むと、出来事の前後のつながりを確認できて、全体の理解もさらに深められるでしょう。
また、年代はすべてを覚える必要はありませんが、教科書にとじ込まれている年表の太字になっているものはしっかり覚えましょう。特に、時代の変わり目となる年代(たとえば、奈良時代が始まる平城京遷都の710年、平安時代が始まる794年、関ヶ原の戦いの1600年など)はしっかりおさえましょう。出来事の起こった順番を確認するとともに、国内のことがらと外国のことがらの起こった時期を対照させておくとよいですね。

時代を問わず、「誰が」「いつ」「どこで」「なぜ」「どんな目的で」「何をして」「結果がどうなったのか」などの内容をひとかたまりにして覚えると記憶にはっきりと残り、思い出す時もいろいろな情報がヒントになってくれます。

歴史を覚えるコツを教えてください。

歴史を覚えるときは、次のことを心がけてみてください。

一回でたくさん覚えようとしない
覚えるコツは、「少しずつ、何度も覚える」ということにつきます。人間の記憶力には限界があり、一回に覚えられる量には限りがあります。教科書を読むときにも、最初は太字になっている部分だけ覚え、次はもう少しくわしいところまで、3回目は細かいところもというように、重要な点から少しずつ覚えていくようにしましょう。

関連づけて覚える
歴史の学習で大事なことは、「流れをつかむ」ことです。
歴史の出来事には、必ず「原因」があり、「結果」や「影響」があります。これらを意識して、「なぜ○○は滅びたのか?」「なぜ○○がこの時代に盛んになったの?」など、問題意識をもって教科書を読んでいくことが大切です。それによって、ただ語句だけを覚えようとするより、ずっと頭に残ります。さらに、時代ごとにどういう出来事が起こったのかをつかむには、年表が効果的です。苦手な時代は、自分で簡単に年表を作成してみましょう。

書いて覚える
知識を定着させるうえで大切なことは、書いて覚えることです。覚えられない用語を何度も書いて練習したり、わかりにくいところを自分の言葉でまとめ直してみたりしましょう。
覚えづらいところは、まとめノートを作って、何回も見直すようにすることをおすすめします。自分でノートを作ってもよいですし、市販のまとめ用ノートを使ってもかまいません。自分でまとめるときには、後から関連事項が出てきたときなどに書き足せるように、余白を十分にとりましょう。

問題で知識を確認する
本当に覚えられたかどうかを確認するために、実際に問題を解いてみましょう。できなかった問題については、必ず教科書に戻って復習してください。