水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)を読む。

著者の友人であるアメリカの大学教授は、次のように言う。

《「あたしたちが小さいころ、小説家っていったら、モンのすごく頭がよくって、いろんなことを考えていて――なにしろ、世の中で一番尊敬できる人たちだと思ってたじゃない。それが、今、日本じゃあ、あたしなんかより頭の悪い人たちが書いてるんだから、あんなもん読む気がしない」》(p57)

なぜ、現代文学がそのようになってしまったのか。「読まれるべき言葉」を読まずに書き始めてしまったからではないかと思います。

まず、書き言葉が読めるようになること。思ったことを自由に書ける、とかではなくてね。そして、日本の近代文学が読めるようになること。

まず身につけるのは、耳から入る話し言葉だろうが、書き言葉を身につけないと、これまで日本語で書かれた多くの叡智の集積が読めない。もちろん、自分で書くこともできない。

PISA調査結果が大きく取り上げられた影響で、「自分の意見をロジカルに書く」的な面が強調されている昨今の風潮について、「欧米語の論理の習得、欧米語への翻訳が容易な文章の書き方のトレーニングではないか」「日本語には日本語なりの論理があるはず」「学術的文章とそれ以外とは性質が異なる」「PISA型学力で求められるスキルにいくら習熟しても、ラブレターは書けないだろう。もし書けたとしても、ラブレター自体の目的はかなえられないだろう。ラブレターは極端だが、エッセイ的な文章も書けないのではないか」といった議論を何年か前にしたことを思い出す。

そして、「我々が目指しているのは、日本近代文学を読める青少年の育成である。また、ある程度の古典(漢文を含む)も読める青少年の育成である。それほどに貴重なコンテンツが日本語の中には豊富にある。それらを大切にしたい」という結論に落ち着いたわけである。

《文化とは、〈読まれるべき言葉〉を継承することでしかない。〈読まれるべき言葉〉がどのような言葉であるかは時代によって異なるであろうが、それにもかかわらず、どの時代にも、引きつがれて〈読まれるべき言葉〉がある。そして、それを読みつぐのが文化なのである。(中略)だが、日本の国語教育の理想を、〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てることに設定しなかった――すなわち、文化を継承するところに設定しなかったがゆえに、時を経るに従い、しだいしだいに〈読まれるべき言葉〉が読みつがれなくなっていったのである。》(p303)

こういったテーマも、「総合」講座の中で試してみたいものだ。

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著者プロフィール

川渕 健二(かわふち けんじ)

おかしいものはおかしいと口に出して言えること、
他者と協同してそれを是正していける人が増えることを願う、
Z会の中高一貫コース「総合」担当者。釣りをこよなく愛する。