総合教材テーマのご紹介「常識を疑え!〜我々は自由なのか?〜」
公開日 2018.10.12
Z会の中学生向け中高一貫コース「総合」講座は、答えがひとつではない問いに自分なりの答えを見つけ、それを他の人と深め合いながら解決できるようになることを目指した講座です。
今回ご紹介する教材テーマは「常識を疑え!〜我々は自由なのか?〜」です。私たちの身の周りにある「常識」は本当に常識なのでしょうか。特定のある社会では「常識」とされることが、より広い社会では常識でもなんでもない、ということがあります。総合講座では、当たり前のものを当たり前として受け入れるのではなく、それに対して「なぜか?」「本当に正しいのか?」と疑い、その「当たり前」について考え直す視点も身につけてほしいと思います。今回はその手始めとして、会員の皆さんに「常識」を疑うことに挑戦してもらいました。
※掲載の都合により、表現を一部省略・変更させていただいた箇所があります。
今回ご紹介する教材テーマは「常識を疑え!〜我々は自由なのか?〜」です。私たちの身の周りにある「常識」は本当に常識なのでしょうか。特定のある社会では「常識」とされることが、より広い社会では常識でもなんでもない、ということがあります。総合講座では、当たり前のものを当たり前として受け入れるのではなく、それに対して「なぜか?」「本当に正しいのか?」と疑い、その「当たり前」について考え直す視点も身につけてほしいと思います。今回はその手始めとして、会員の皆さんに「常識」を疑うことに挑戦してもらいました。
※掲載の都合により、表現を一部省略・変更させていただいた箇所があります。
◆中1_人文分野 常識を疑え!〜我々は自由なのか?〜
◎出題のねらい◎
今回は講座全体を貫くテーマを取り上げます。それが「常識を疑え!」です。この講座の目指すところの一つは、皆さんに「おかしいことにはおかしいと言える」力を身につけてもらうことです。そして「おかしいことにはおかしいと言える」ためには、現実を無批判に受け入れるのではなく、それらを批判的に検討してみる態度が必須です。例えば、多くの学生にとっては朝起きて学校に通うことが「常識」になっていますが、それはいつからでしょうか。どこでも通用することでしょうか。このように考えていくと、「常識」だと思っていたことが、実際にはそうとも言い切れない、ということに気づくことができるはずです。提出課題では、「我々は今、自由か?」について、「自由」の意味とあわせて考えてもらいました。
今回は講座全体を貫くテーマを取り上げます。それが「常識を疑え!」です。この講座の目指すところの一つは、皆さんに「おかしいことにはおかしいと言える」力を身につけてもらうことです。そして「おかしいことにはおかしいと言える」ためには、現実を無批判に受け入れるのではなく、それらを批判的に検討してみる態度が必須です。例えば、多くの学生にとっては朝起きて学校に通うことが「常識」になっていますが、それはいつからでしょうか。どこでも通用することでしょうか。このように考えていくと、「常識」だと思っていたことが、実際にはそうとも言い切れない、ということに気づくことができるはずです。提出課題では、「我々は今、自由か?」について、「自由」の意味とあわせて考えてもらいました。
◎問題◎
資料1で先生が次のように言っていました。
「我々は自由を求める存在であり、そして現在、たとえば江戸時代の人々と比べて、我々ははるかに自由だということになっている。」
つまり今、我々は「自由」だというのが「常識」だということですが、あなたは、今の我々が「自由」だと思いますか、それとも「不自由」だと思いますか。そのように思う根拠を挙げつつ、300字以内であなたの考えを書きなさい。
「我々は自由を求める存在であり、そして現在、たとえば江戸時代の人々と比べて、我々ははるかに自由だということになっている。」
つまり今、我々は「自由」だというのが「常識」だということですが、あなたは、今の我々が「自由」だと思いますか、それとも「不自由」だと思いますか。そのように思う根拠を挙げつつ、300字以内であなたの考えを書きなさい。
◎答案例1◎
現在の方が江戸時代よりも自由だと思う。なぜなら、江戸時代は将軍などの支配者がいたためだ。支配者がいると、従っている人たちは発言、行動などが制限されてしまい不自由だ。現在は日本国憲法に、法の下の平等が示されていたり、身体、表現、精神の自由などが保障されている。そのおかげでマスコミなどが政治のありのままの姿を国民に伝えたり、政治家の政策に反対する人たちが国会でデモを起こしたりできるようになった。江戸時代では蛮社の獄のように政治に反対するとたいていの場合重い罪になってしまっている。そう考えると現在の方が江戸時代よりもはるかに自由だと思う。
◎答案例2◎
私は、今の我々は不自由だと思う。私にとって自由とは、「何事にもしばられず、自分の好きなようにできること」である。だから、もし今の社会が自由であるとするならば、自分がやりたいと思ったことを何でもできる人がほとんどのはずだ。しかし、職業に関しては、子供の頃になりたかった職業に就き、続けられたのは9%と、とても少ないということが分かる(セレス調べ)。また、今の世界は、会社の競争社会へ化し、仕事によって、普段の生活がうばわれる人が多いと思う。だからといって、仕事をしないと生きていけないので、辞めるわけにはいかない。以上のことから、今の我々は、自由を求めるために、不自由になっていると考えたい。
◎答案例3◎
私は、今の我々は不自由だと思う。なぜなら、便利なものがあふれ、様々な仕組みが整っている今の時代は、一見自由だが、裏をかえせば、その「便利」なものを使わないと「不便」ということになるからだ。新しいものを取り込む社会の流れは、逆に意図しない圧力となり、「そうしなければいけない」状況をつくり出している。例えば、周囲の人間がみなスマートフォンを持っており、社会がスマートフォンを多く使う流れになっていたとき、一人持っていない人がいると、その人は、自分も「持たなければいけない」というように感じてしまう。それは、つまり不自由ということだ。今の我々は、便利だが、必ずしも自由というわけではないのだと、私は思う。
◎答案例4◎
僕は、両方だと考える。それは、自由のとらえ方の違いで生まれるものである。まず、自由が自分の思い通りになるという考え方をすると、今は不自由である。なぜなら、日本では多くの法律があり、さらに障がい者などは自分のしたい事が出来なかったりしてしまう。格差社会では、貧困層も自由ではなくなる。次に、「自由は不自由の中にあり」のように、ルールの中での自分の行動が自由だと考えると、今は自由である。なぜなら、世界には様々なルールがあるが、その中でできる事は数えきれないほどある。さらに、今の我々がそれで自由だと感じているなら、今は自由であると考える。以上の理由から、僕は両方だと考える。
◎講評◎
資料1のところで「たとえば江戸時代の人々と比べて……」と言ったせいか、答案でも、江戸時代と現代を比較して論じているものが多く見られました。その中でも、自由・不自由と意見が分かれましたが、自由だとする根拠で最も多かったのが、固定的な身分制度がなくなって努力次第で社会的な上昇が可能になり、自分の望む職業に就ける、としたものでした。たしかに、理念としてはそのとおりですね。ただし、現実もそうなっているでしょうか。明治時代に生まれた「末は博士か大臣か」という言葉も、今ではすっかり聞かれなくなりました。国会議員の3人に1人が世襲、つまり二世三世議員であるという現実を、みなさんはどう考えますか。教育統計学者の舞田敏彦氏によれば、世帯主が40〜50歳で世帯年収が950万円以上ある家庭の割合は全体で22.6%であるのに対し、東大生の家庭に限ればそれが57.0%になるそうです。この現実を、みなさんはどう考えますか。
一方、不自由であるとする根拠には、様々なものが見られました。たとえば、現代人は常に時間に追われている……もっともな指摘です。おそらく、学校に入ってから仕事をリタイアするまで、わたしたちは時間に追われ続けるのかもしれません。それ以前に、一億総活躍社会なんて言葉も出てきていますから、なかなかリタイアもさせてもらえないのかもしれません。では、そのように時間に追われるのはなぜなのでしょうか。さらに考察を深めてほしいと思います。
このように、「総合」講座では身近ではあるけれど、今まで深く考えたことがなかったであろう問題に正面から向き合い、徹底的に考え、答案にまとめます。このプロセスを毎月くり返すことで『思考力』『判断力』『表現力』が伸び、自らの考えを深め表現する力を養います。
ぜひ、「総合」講座で考える力を培ってください。