アートで養われる柔軟な視点で、行き詰った気持ちが楽になる

「!」を表現したいと思っても、いきなりだとなかなか難しいですね。なぐり描きの次の段階に進むにはどうしたらいいのでしょうか。

以前、教員養成課程の図工の授業を担当していたときに、喜怒哀楽をリンゴで表現するという課題を出したことがあるんです。赤くて丸いというリンゴのイメージを壊すように感情をぶつけてみましょうって。すると、たとえば怒りのリンゴは暗い色を重ねて塗りつぶしたり、哀しいリンゴは寒色系の色で描いたり、楽しいリンゴは鼻歌気分で描いたりと、絵が苦手という学生もおもしろがって描いていました。

真白い紙の上に「自由に描いてください」と言われると身構えてしまいますが、「リンゴで喜怒哀楽を表現しなさい」とか、先に変な図形が描いてあるとか、ちょっとした「枠」があると、それを壊すのは純粋に楽しい。いつもと違う視点から表現に挑めるというところもあって、実は本当の表現というか、アートってそういうものだと思うんですよね。

世界をそのまま美しく写し取るのではなくて、いかにみんながあたりまえだと思っているものを壊していくか、固定観念を壊して新しい価値を見せていくか、そこに自由やおもしろさがあり、それこそがアートの本質的な部分ですから。

私も先日、「喜怒哀楽のリンゴ」を描いてみたんですよ。すると怒りのリンゴだけ、描くのに非常に抵抗を感じて、「私は日常の中で怒りをうまく表現できていないのかも」という気づきがあったんです。描いている間もすごくおもしろかったので、ぜひみなさんにもやってみてもらいたいなと思いました。

実際にやってみると、自分自身の感情にも気づけるのも、アートの(だい)()()なんですよね。

たとえば、描く線に怒りをぶつけることで気持ちがすっきりしたり、「楽しいリンゴ」と思って描いていると、わけもなく楽しくなってきたり。表現の中に気持ちを解放することで、自分の中にため込んでいた嫌な気持ちやつらい気持ちが少し客観化できて、軽くなるように感じることもありますしね。

気持ちが楽になるということで言うと、普段息苦しかったり、行き詰ったりするときって、自分の固定された視点からしか見られなくなってしまっている状態だと思うんです。そんなときに、ちょっと目線をずらして見たり、いつもの枠を壊して見たり、違う見え方に気がつくと、ほんのちょっとかもしれないけれど、気持ちが楽になることがあるんですよ。いったん自分から離れて、別のものになってみる。自分を空っぽにして、別の視点から見てみる。私もそうですが、それだけで救われることってあるんですよね。

その点、今まで見えていたものの見え方ではない、新しい見え方に気づかせてくれるアートこそ、柔軟な視点を養ういちばんの方法かもしれません。



▲「リンゴで喜怒哀楽を表現する」作品例

中高生のみなさんにはまず、日常の中で、「!」と感じる心を意識してほしいですね。

「!」を感じる力というのは、アートに限らず、どんな人にとっても、どんな仕事に就いていても重要だと思うんです。「!」を感じる瞬間は世界が広がる豊かな時間ですから、ぜひ普段の生活の中で、そういう瞬間を大事にしてもらいたいと思います。

さらにその「!」を表現という形でアウトプットするには、たくさんのインプットが必要です。とにかく五感をつかっていろいろなものを見たり、感じたりする。本を読んだり、人の話を聞いたりするのも、自然を観察したり、アートを鑑賞したりするのも、全部インプットとして自分の中に入ってくる。すると次第に、自分はどういうものが好きか、どういうものに興味があるかといった、自分のフィルターのようなものが自然とできてくるんですね。

結果としてアウトプットされるものは、どんなインプットをするかで決まってきます。自分を表現しなくちゃ、自分の表現を探さなくちゃ、と難しく考えるのではなくて、たくさんのインプットをしつつ、それこそなぐり描きから始めて、線を引いたり色を塗ったりする過程そのものをおもしろがっていると、思いもかけないもの、とんでもないアウトプットが出てくるかもしれません。

ぜひ、楽しむ気持ちを見いだしてほしいと思いますね。

ありがとうございました。

齋藤 亜矢先生(京都芸術大学文明哲学研究所教授)

齋藤 亜矢先生
(京都芸術大学文明哲学研究所教授)

京都大学理学部卒業、同大学院医学研究科修士課程修了、東京藝術大学大学院美術研究科修了。博士(美術)。日本学術振興会特別研究員を経て、京都大学野生動物研究センター特定助教としてチンパンジー60頭ほどが暮らす熊本サンクチュアリに勤務したのち、中部学院大学教育学部で准教授として図工等を担当。現在、京都芸術大学文明哲学研究所教授。芸術する心がなぜ生まれたのか、進化や発達の視点からアプローチしている。絵を描こうとする人間の心を考究する「芸術認知科学」の分野を開拓。

著書に『ヒトはなぜ絵を描くのか―芸術認知科学への招待』『ルビンのツボ―芸術する体と心』(岩波書店)などがある。

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「世界を広げる『アート』」のまとめ回(1月予定)に、皆さんから頂いた声とともに考察します。

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