美術作品は、鑑賞者がいて初めて「アート」になる

作品の意味というのは作者がつくるものだと思うのですが、それを見る人が勝手に想像して、自分なりの意味や解釈をつくってよいものなのでしょうか。

20世紀を代表する哲学者であるロラン・バルトは、「書物は書架に置かれている限りは単なる紙の塊に過ぎず、文学作品は読者の存在があって初めて文学になる」というようなことを言っています。

これを美術作品に置き換えると、壁に絵が掛かっていても、それだけではただの塊、物質、「アートワーク」に過ぎない。そこに人が来て、鑑賞することによって初めて「アート」が生まれる、ということなんですね。ですから、見る人の数だけ解釈があり、答えがある。作者が意図した解釈があるとして、たとえそれとは異なっていたとしても、見る人が作品を観察して、そこから考え、想像して作り出された解釈・意味であれば、それらはすべて尊重されるべきなのです。

ただ、ここで一つ気をつけなければいけないのは、絵を観察する段階でまったく誤った解釈をしてしまったらどうなのか、ということです。

たとえばこんな例があります。
ある美術館のワークショップで、エベラルド・ブラウンの《ジャマイカ山に登るシモン・ボリバル》The Ascension of Siomn Bolivar on Mount Jamaica(1983、アメリカン・フォーク・アート博物館所蔵)という絵をみんなで鑑賞したそうです。
このときは、事前に何の情報ももたず、自由に自分たちの思ったままを言い合いました。
※タイトルやこちらのリンクをクリックすると鑑賞できます。

すると、「絵の中のシモン・ボリバルはこのあたりに住む人々とは異なった服装をしているし、剣のようなものを持っている」ということに気づき、そこから、「この人は何かよくないことをしにここに来た人、侵略者かもしれない」という解釈が生まれました。

しかし実は、シモン・ボリバルは南アメリカを植民地支配から解放した英雄です。
これは、勘違いから鑑賞を進めてしまったとしたら、正しい観察にはなりえない、ということを示していると思います。
こういった勘違いを経ても、自分の考えを導き出していれば、本当にその作品を鑑賞したことになるといえるでしょうか。私は少し違うのではないかと思います。

そこで重要になるのが、鑑賞の4つのツールの「メモ」です。
「メモ」とは、作品に関する情報、作家に関する情報、時代や文化との関連、周辺の情報を調べることです。このシモン・ボリバルの例のように、もし主題から逸脱して捉えてしまったとしても、自分で調べて「ちょっと違ったのか」とわかれば、そこで改めて観察に戻り、なんで自分は勘違いをしたんだろうというところを出発点に「解放者」「英雄」という視点で鑑賞を進めていくこともできそうです。

美術鑑賞から広がる 社会や文化、他分野への興味・学びへ

「教養型」だと、つい作品や作者に関する情報や知識を先に知ってから作品を見たいと思ってしまいがちですが、自分なりの解釈を作り出した後で調べる、ということが大切なのですね。

いったん作家や作品に関する情報が入ってしまうと、そのフィルターを通してしかその絵が見えなくなってしまいます。作品を細かく観察し、直接に感じ取り、イメージを広げていくことこそが美術作品を見ることの本質であって、美術を鑑賞するうえでとても大切なことなのです。

菱田春草の《落葉》でも、もし

「これは死の間際に描かれた作品です。この作品は、作者が衰えゆく視力と体力の中、療養先の代々木の雑木林を見つめながら描いた《落葉》という作品です」

という解説を先に読んでしまっていたら、「失恋したあとに恋が芽生えて緑色の木が生えてきた」なんていうみずみずしい解釈は出て来ないですよね。

自分で観察して、考えて、想像して、自分なりの解釈・意味をつくり出したところで、作者や作品に関する情報や知識を調べてみる。「へぇ、そうなんだ!」とわかってからもう一度作品に向き合うと、また見方が変わってくるんですね。それが、鑑賞の奥深いところ、おもしろいところなんです。

4つのツールの最後、「鍵」が残りました。
これは、これまで「ルーペ」「鏡」「メモ」を使って得たことすべてを総合して、作品の主題を探り、メッセージを解読して、作品の扉を開けて中に入るということで、その中に入るための「鍵」を意味します。
鍵を使って作品の中に入り込み、「この作品は、私なりに言うとこういう絵なんだ」という自分なりの答えを導き出せたら、最初に言った「意味生成型の鑑賞」ができたということになるわけです。

このように、4つのツールを使って手順を踏んでいけば一人でも十分な鑑賞ができますが、さらにできたら、一緒に同じ作品を見て誰かと意見交換をする体験もしていただきたいのです。
学校の美術の授業では、「鑑賞」も行われていると思います。みなさんも、一つの絵をみんなで「対話」しながら進めていく授業をしたことがあるかもしれませんね。同じものを見ても、人は違うものの見方をする。ものの見方、解釈の仕方は一つじゃないんだな、と多様であることを学ぶ。これはとても大事なことですし、それによって鑑賞はより深まるはずです。

さて、「意味生成型の鑑賞」という意味では、ここまでで十分なのですが、さらに一歩進んだお話をしますと、4つのツールの「鍵」には、「扉を開けて作品の中に入る」という意味のほかにもう一つ、「扉を開けて外に出る」という意味もあります。

まだ日本では一般化していませんが、欧米諸国では美術作品を通して社会や文化との関連を探ったり、ほかの分野やほかの教科の観点から美術作品を見たりすることがよく行なわれています。

たとえば、フェルメールの《夫人と召使》の絵の中に木箱がありましたが、よく見るとあの意匠から、おそらく日本製ではないかと思われます。
そこから、「だとすると、あの箱は交易で輸入されたのではないか」「東インド会社が輸入したものではないか」というようなことに気づくかもしれません。
実際、調べたところ、フェルメールの親戚に東インド会社の関係者がいることがわかっています。
この夫人がまとっている毛皮も輸入品だと思われるのですが、何の毛皮だと思いますか。
ある世界史の先生が調べたところ、なんとオコジョの毛皮だそうで、オコジョの冬毛は白くて尻尾の先だけ黒いんですって。つまり、黒い点の数だけのオコジョを使って作られた、超高級品の毛皮なんだ、ということがわかりました。

美術作品を通して、これまで知らなかった分野のことを知ったり、興味をもったり、考えもしなかった生活の中の問題や社会の矛盾に気がついたり考えたりする。そうやって美術を楽しみ、視野や世界を広げていってほしいと、今、世界の美術館関係者の多くが願っていると思います。

まさに美術鑑賞があらゆる世界への「鍵」になるわけですね。

そうなのです! ですから、できるだけ早いうちに、それこそみなさんのような中高生のうちから美術鑑賞に親しんで、その楽しさを知ってもらいたいのです。

美術鑑賞というのは決して難しいものでも敷居が高いものでもありません。まずは気にいった作品、気になる作品を一つ選んで、今回お伝えしたような手順で鑑賞してみてください。実際にやってみたら、きっとおもしろさがわかるはずですよ。

―ありがとうございました。今、すぐにでも美術鑑賞を実践したくなりました。

上野 行一先生(「美術による学び研究会」代表)

上野 行一先生
(「美術による学び研究会」代表)

日本最大の美術教育研究団体・学会である「美術による学び研究会」代表。元高知大学大学院教授。1990年代から「対話による美術鑑賞」に注目し、分析と実践を通じて教育現場への応用と普及に取り組む。著書に『私の中の自由な美術』『風神雷神はなぜ笑っているのか』(光村図書)などがある。NHK高校講座「芸術(美術Ⅰ)」の監修者。中学校・高等学校『美術』教科書(光村図書)の編集著作者でもある。

上野行一先生のお話を読んで気づいたこと、
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「世界を広げる『アート』」のまとめ回(1月予定)に、皆さんから頂いた声とともに考察します。

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