クリティカル・シンキング/みんなの意見 7月の回答選と解説

中1
中1 10月(CLT1F1)
「せみの鳴き声」からの出題

今回の課題

今回のクリティカル・シンキングは、次の課題だった。

あるものに対する知識を得たことで、自分の感じ方がかわったあなたの体験を一つ取り上げ、どのようにかわったのかも含めて二文程度で説明しなさい。

今回は、「せみ」に関するある知識を得て変化した心情を題材にした詩をふまえ、みなさんの感じ方がかわった体験を投稿してもらった。さっそくいくつかご紹介していこう。

今回の回答選

速水りんかさん

私はずっと蜘蛛が苦手だったんですけど、この前、蜘蛛は色々な変な虫も食べてくれるし家の守り神なんだよという話を聞いて、家に蜘蛛がいても普通にいられるようになりました。

 

速水りんかさんは、蜘蛛が害虫を食べてくれる守り神だと聞いて、蜘蛛への認識がかわったという体験を紹介してくれた。苦手に感じていたのは、蜘蛛の見た目のせいだろうか。このように、自分がマイナスの感情を抱いていたものに対して、ある知識を得たり別の角度から見たりしたことで、大きく考えが変化する場合も少なくない

K.T.さん

漢字が特別好きというわけではないが習ったことで漢字を組み合わせて文章にしたり出来るようになったので、習いたての頃より面白いです。

 

〈漢字を習ったことが自分に何を与えてくれたのか〉というのを分析したK.T.さんの着眼点が光っている。「漢字」を習ったことで、K.T.さんは新しい表現手段を手に入れたわけだ。知ることは自分の可能性を広げること、ということに気づいている点が鋭い。

マッピさん

数学の公式などを理解して、問題をすらすら解けるようになった。だから、前は数学は面白くないと思っていたが、今では面白く、楽しい。

 

解けるようになったことで、面白くないと思っていた数学の面白さ・楽しさに目覚めたという経験マッピさんだけでなく、こうした経験は誰しもしたことがあるだろう。自分がすらすらできるものは当然楽しいし、楽しいことは自然に取り組めるからより得意になり、より楽しくなる。とてもよいプラスの循環だ。逆に考えれば、今、苦手だ・嫌いだと思っていることも、実は「できない」ことが大きな原因で、少しでもできるようになれば一気に好きになれるのではないか、という希望を感じる体験だ。

k・tさん

中学生1年生の中では背が高い僕がバスケのシュートフォームを教わった。そしたら鬼に金棒。バスケが上達して友達と楽しむことができた。

 

「鬼に金棒」とは心強い! 少し大げさなこの表現を用いることで、k・tさんが本当に楽しくバスケをしているんだろうなあということが上手く伝わってきた。もともとの資質にちょっとした何かが加わって、驚くほど大きな変化が訪れる。人生のドラマチックなおもしろさを感じる体験だ。バスケのことに限らず、k・tさんにもこれを読んでいるみなさんの中にも、今はまだ発芽していないけれど、ほんのちょっとした刺激でこれから伸びてくる可能性の芽がたくさんあるのだろうと思うと、とても楽しみだ。

A.S.さん

犬は人間の命の半分も生きられないのだと聞き、今飼っている犬を大切に育てようと決めました。

 

A.S.さんは「寿命」を意識したことで起きた変化を回答してくれた。課題の詩と同じく、命の有限性に気づいたことで飼い犬への思いが深まったのだろう
A.S.さんの回答を読んで、ラテン語の「メメント・モリ(memento mori)」という警句を思い出した。西欧の絵画のモチーフなどにされることも多い言葉だが、〈自分がいつか必ず死ぬ存在であることを忘れるな〉という意味。自分や人や動物が永遠に生きながらえることはないという事実を心に留め置くと、まわりの存在や日常の事柄に対する見え方がかわるのではないだろうか。

初恋の絵本さん

前までは単に観光するための所だと思っていたが、授業で世界遺産について学習した時から、その世界遺産の歴史を考え、感じるようになった。また、世界中の世界遺産に興味を持つ事ができた。

 

日本では、1992年にユネスコの世界遺産条約(正式名称「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」)を締結した。「世界遺産」の分類には、「文化遺産」と「自然遺産」の二種類がある。条約の第一条と第二条を簡単にまとめると、「文化遺産」とは、歴史上・芸術上・学術上などで顕著な普遍的価値を有する記念工作物・建造物群・遺跡として認定されたもの、「自然遺産」とは、鑑賞(景観)上・学術上・保存上などで顕著な普遍的価値を有すると認定されたものである。2017年1月現在、日本にあるものでリスト入りしたのは次の通り。

「法隆寺地域の仏教建造物」(文化遺産)
「姫路城」(文化遺産)
「白神山地」(自然遺産)
「屋久島」(自然遺産)
「古都京都の文化財」(文化遺産)
「白川郷・五箇山の合掌造り集落」(文化遺産)
「原爆ドーム」(文化遺産)
「厳島神社」(文化遺産)
「古都奈良の文化財」(文化遺産)
「日光の社寺」(文化遺産)
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(文化遺産)
「紀伊山地の霊場と参詣道」(文化遺産)
「石見銀山遺跡とその文化的景観」(文化遺産)
「平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」(文化遺産)
「富士山 信仰の対象と芸術の源泉」(文化遺産)
「富岡製糸場と絹産業遺産群」(文化遺産)
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」(文化遺産)
「ル・コルビュジエの建築作品 近代建築運動への顕著な貢献」(文化遺産)

初恋の絵本さんが書いてくれたように、それぞれがなぜ世界遺産として認められたのかを調べてみるとたくさんの発見があり、歴史の重みを感じる
参考)文化庁「文化遺産オンライン」(世界遺産と無形文化遺産)http://bunka.nii.ac.jp/special_content/world

げんそじんさん

人とは、それで1つの生命体だと思っていたが、人間の細胞はそれぞれが活動していて、1つ1つが生きているのだと知った時に、人は細胞というたくさんの生命が集まってできているのだと考えが変わった。

 

げんそじんさんは人間に対する認識の変化をあげてくれていて、とても興味深い。
個数については研究中の事柄だが、一説によれば人間の身体は37億兆個の細胞で構成されているという。細胞それぞれが生きて活動しており、しかも絶えず古いものは死に、新しい細胞が生まれている(これを「新陳代謝(しんちんたいしゃ)」という)。部位によって異なるが、例えば、血液などは4か月くらいで全体が入れ替わり、骨の細胞は3〜5年ほどで入れ替わるという。
そんな話を聞くと、5年前の自分と今の自分は本当に同じ人間だといえるのだろうか? といった疑問が浮かんでくる。そもそも、私たちは身体の内部の器官を意識的に動かしてはいない。「心臓よ動け!」「血液よ流れろ!」と念じて自分で心臓を動かしたり血液を全身にめぐらせている人はいないだろう。「私」が生きているのではなく、私の「身体」が生きているのではないか、という考えが浮かんでくる。
「身体」を中心に見てみると、自分とはいったい誰なのか、生きているというのはどういうことなのか、これまでとはちがう考えが浮かんできそうである

なーなさん

いつも怒ってばかりいる先生は、本当は怒りたくないけど私たちのために怒ってくれていると知ったとき。今までは怒ってばかりいるから嫌いだったけど、私たちのためにいってくれているんだから、きちんとしようと思った。

 

先生が「怒る」意味を知って、先生に対する見方がかわったというのがなーなさんの体験。先生への感情が変わっただけでなく、この体験で、なーなさん〈「怒る」という感情は、相手に対するマイナスの感情から起こるだけではない〉ということを体感として理解したのではないだろうか。だから、もしも、これから先生以外の誰かから怒られても、「あの人は嫌な人だ」と判断する前に、「あの人が怒ったのは、もしかして私のためでもあったのかな?」と考えるようになったのではないか。
「憎いから怒るのではない」とか、「涙は悲しい時にだけ流すものではない」とか、そうした人の感情を、私たちは誰かから聞いて知ったつもりでいる。でも、そのことがしみじみと「わかる」のは、誰かが自分を思って怒ってくれたり(逆に、誰かのために怒ったり)、喜びや安心から流す涙を体験したり見たりした時からではないかと思う。
知識と体感の両方を得なければ、「わかる」という領域にはなかなか足を踏み入れることができない。

H.O.さん

犬がしぐさで感情をあらわすと知った時、怒ってる時や嫌がっている時はむやみやたらに触らないようになった。

 

H.O.さんの体験は、犬のしぐさや感情に注意を払うことで自分の振る舞いがかわったという体験。この体験により、きっとH.O.さんは、犬も自分自身と同じように感情をもつ存在だということを意識したのだと思う
「自分以外の人間や動物にも感情がある」というのは、文字で書くとあたりまえのようだけれど、本当に私たちはそれを意識しているのだろうか? 誰か他の人になにかすてきなことや嫌なことをされて私たちの気持ちが上がったり下がったりするように、自分の隣の人や動物も同じように自分がしたことに喜んだり悲しんだりすることを、案外意識している瞬間は少ないのではないだろうか(もちろん、何に対してどう反応するのかは人それぞれだが)。
自分以外のものにも感情があるという当たり前のようなこの事実を常に意識し続けるのは、実は存外難しいことだ。

Y.T.さん

植物にも気持ちや感情があると聞いたときに、僕は今まで植物は何も思わずにただ生きていると思っていたが植物もいつも何かを考えて生きているのではないかと思うようになった。

 

植物に感情や記憶があるのではないか、植物どうしが会話をしているのではないかなど、植物の意識について調べる科学実験がたくさん行われているそうなので、Y.T.さんはそれらを知って、植物に対する見方がかわったのだろうか。先にご紹介したH.O.さんが犬の感情に注意を払うように、Y.T.さんは植物の感情のことを思って生きているのだろう。
〈日々の生活の中で、何に注目しているのか〉というのはひとりひとりポイントがちがって、だから同じ光景を目にしてもひとりひとり見える世界がちがっているのだろう
そう考えると不思議だし、誰かを理解したいと願う時には、〈その人が何を大切にして、どこを起点に見ているのか〉を知ろうとすることも大事だなあと思う。

ごまめさん

私は、ティッシュが木から作られていることを知るまでは、人工的なものから作られてると思い、使いすぎを気にせずにたくさん使っていました。しかし、木から作られていることを知り、ティッシュも貴重なものなんだと思って、これからは無駄使いしないようにしていきたいと思いました。

 

確かに、木とティッシュは形状がまったくちがうので、ティシュが木から作られているというのは、誰か(何か)に教えてもらうまで関連付けるのは難しい。ごまめさんのこの発見のように、私たちの身のまわりには〈実は原材料が何かを意識していないもの〉が多いのではないかと気づかされた。
少しそれるけれど、以前美術館の講演会で聞いた話。輪島塗などの漆器に描いてある蒔絵(漆の表面に絵や文字などの文様をほどこす漆器工芸の技法。ぴんと来ない人は蒔絵の写真を調べてみてほしい。その緻密さがよくわかると思う)では、たいへん細かい模様が描ける特別な筆(蒔絵筆)が必要になる。この筆は、日本の自然で暮らすねずみの毛を用いてしかつくることができず、人工的な素材や輸入した素材では、現時点ではその代用にならないそうだ。しかし、近年そのねずみの減少やねずみを捕獲する人がいなくなり、蒔絵筆を作るのが困難な状況になっているらしい。よい蒔絵筆が職人さんの手に入らなければ、それだけよい蒔絵をつくることが難しくなる。この状態が続けば、日本の蒔絵の技術そのものが失われることにもなりかねない。
あるものが何からできているのか知らなくても暮らしていくことはできる。しかし、何からできているのかを意識しないうちに、失われていくものがある(逆にいえば、何からできているのかを意識することで少しでも失うことを防げるものもある)のではないかなと思う。ティッシュと木の関係のように。

ちび太さん

僕はサッカー日本代表の本田選手はもともとあった才能だけでここまできたと思っていた。だが本田選手に関する本を読んで努力をして這い上がってきた人だということがわかった。

 

ちび太さんは本田選手について、自分の認識がかわった経験をとりあげてくれた。すごい活躍をしている人について、ついつい「生まれつき自分とはちがう人間」として見てしまいがちだ。もちろん自分と完全に同じ人間ではないけれど、その人を〈ただ特別視するのではなく、よく知ろうとすること〉でわかることは多いだろう。「神様」扱いをするのではなく、同じ「人間」として見るからこそ、その人について見えるものがある。
(逆に、その人について多くのことを知らないほうが、「神様」「アイドル」としてまつりあげやすい、ということもいえる)

もーたんさん

最近、家庭科の授業で添加物の体への害を教わった。それから私は、加工食品を買う前に食品パッケージを見て、安全な物かを確認するようになった。

 

知識を得たことで行動する際に見るポイントがかわった、という例をあげてくれたのがもーたんさん。添加物に限らず、「情報の見方」を知る前と知ったあとで行動がかわったという経験は誰しもしたことがあるのではないだろうか。

yuNaさん

自由研究で、土手に生えた猫じゃらしを研究しました。それ以来、今までは素通りしていたけど、今は常を気にかけて観察するようになりました。

 

自由研究で「猫じゃらし」を研究したことをきっかけに、〈「猫じゃらし」を観察する目〉が生まれたというyuNaさんの体験。私たちの身のまわりにはいろいろなものがあるけれど、そのうち、本当に意識して見ているものというのはそんなに多くないように思う。そして、漫然と見ているだけでは発見できないことが多い。
昆虫の生態をひたすら観察し続けて『昆虫記』を書いたフランスの博物学者・ファーブルの言葉に「見ることは知ること」というものがあるそうだ。「猫じゃらし」を観察する目をもったyuNaさんは、「猫じゃらし」について、他の人よりもこれからもたくさんの発見をすることができるだろう。
何かによって自分のものの見方がかわることがあるが、そうした出会いを求めるためには、まずはそれを見ようとする「目」をもつという、受け手の姿勢がなにより大事だろう。

うずらさん

自由研究でうずらの卵をかえす実験をしましたが失敗に終わってしまいました。この実験で卵から生まれてくることの難しさを知りました。しかし、このことを考えると切なくなり、以前まで好物だった卵類が食べづらくなってしまいました。

 

「生まれてくることの難しさを知った」という、うずらさんが体験から得たものの説明がとても印象的だった。そうだね。ふだんの生活の中で忘れがちではあるけれど、生まれることも、今こうして生きているということも奇跡のような確率で成立していることなのだろう。

すぷーん。さん

それまでは、毎日ご飯を食べることが当たり前だと思っていた。けれども、貧しい国ではそれが当たり前ではないことを知り、一口一口を大切に食べようと思った。

 

すぷーん。さんは、貧しい国との比較で「毎日ご飯を食べること」が当たり前ではないという気づきを紹介してくれた。先にご紹介したうずらさんと関連して、〈自分がもっているもの・与えられているものについて、実は自分自身ではわかっていないことがある〉ということに気づく体験だ。

君の単単単位さん

歯医者へ行った時に、自分の歯の虫歯の状態が深刻であることを医者から知らされて、お菓子を食べる量をとても気にするようになった。

 

これも自分自身のことについて、案外自分だけで知ることは難しいと感じる例。なんとも思っていなかったけれど、実は自分がまずい状態にあったことに気づいて、行動がかわるという経験は、誰しもあるのではないだろうか。自分では自分のことがよくわからない場合もあるから、「人の言葉に耳を傾ける」というのは大切なことだ

かおりさん

教科書などが税金で買われていると知って、ちゃんと勉強しないと申し訳ないな、と思った。

 

かおりさんは教科書についての興味深い変化をあげてくれた。小学校・中学校という義務教育の期間中、みなさんには新しい教科書が無償で配布される。かおりさんが指摘してくれたように、実はこれは税金で買っているのである。
この教科書の無償配布は、貧富の差による教育の格差をなくしたいという思いから無償化を望む運動が起きて法律が成立し、今から50年少し前、1963年(昭和68)から実施されたものである。他国では教科書が無償ではない場合もある。
文部科学省のホームページで教科書の定価の最高額がまとめられているが(価格は教科書会社によって異なる)、平成28年2月3日の発表によれば、中学1年生の教科書の最高額は、英語が322円、数学が602円、国語が788円。主要5教科・実技4教科の教科書の最高額を足しあげると、中1では7,300円ほどになる。もちろん、公立の場合は授業料も税金から支払われている。
こうしたことを知ると、かおりさんと同じく、教科書を見る目が変わってくるのではないだろうか。

参考)文部科学省ホームページ
教科書の定価認可基準の一部を改正する件(平成28年2月3日)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/teika/1366655.htm

柚之助さん

11月頃に飛ぶ、雪虫。雪が降る前触れとも言われ、白い毛を生やした小さな虫がふわふわと飛ぶ様子はなかなか可愛らしい。だが、正体が野菜などにつく害虫・アブラムシだと知ると、素敵さのかけらもない、むしろ嫌なモノだと思うようになった。

 

最後は少しほろ苦い経験。秋の深まる頃、綿毛のように白く小さくふわふわ飛ぶ小さい虫を見かけたことがあるだろうか。「雪虫」以外にも、「わたむし」「しろばんば」「ゆきんこ」など、地方によって呼び方が異なるようだ。農業や園芸が身近でない人はぴんとこないかもしれないが、アブラムシは果樹や野菜などの農作物を駄目にしてしまうため、注意を払わなければならない虫である。
雪虫の「正体」を知ったことで、柚之助さんの景色の見え方がマイナスの方向にかわってしまったという経験が、今回のたくさんの回答の中で目を引いた。
「知っている」ということは、私たちの力になってくれたり、新しい世界を見せてくれたりする。でも一方で、よしあしはさておき、知識を得たことで〈知らなかったからこそ見えていた世界〉を永遠に失うこともある
「得ること」で失うものもあり、一方、「失うこと」によって得られたものもある。そんな哲学的なことを考えさせられた回答だった。

Z会のつぶやき

 

今回の課題に関して、課題への回答ではないけれど気になる感想が投稿されたのでご紹介したい。

マーーコさん
夏になると聞こえてきますよねー
うるさいなぁーって思う事もあるけれどセミの命って短いですから本当はうるさいなぁーって思わない方がいいんですよね
でもうるさいなぁー

みなさんなら、マーーコさんの「うるさいなぁーって思わないほうがいいんですよね」という感想になんと言葉を返すだろうか?

これも「正解のない」質問だが、国語担当は「うるさいなぁー」と思ってもいいんじゃないかな、とお返事したい。セミが短命であるのは事実だけれど、だからといって「うるさい」と感じたマーーコさんの思いを否定する必要はない。
否定する必要はないが、セミの命が短いことを知る前と知ったあとでは、「うるさい」と感じる時の心の動きはやはりちがうものなのだと思う。例えば、「うるさいなぁー」と思ったあとに、「けど、セミが 今 生きているんだなー。Z会の国語にそんなのあったなー」など、その知識を得るまでとはとちがう感想が加わるような気がする。

直感だけが正しいわけではないし、一つの考えをずっと持ち続けなければならないわけでもない。その時その時に、感じたこと、知っていること、考えたことなどをあわせて、そこから何を思い、何を言葉にして口に出したり、行動したりするのかを決めればよい。もとにする材料が違ってくるから、当然、その時その時でその結果もかわってくる。それが成長というものではないだろうか。

成長のきっかけを手に入れるには、自分から自分自身の殻を閉じずに、まわりから与えられる刺激を受け止め、そして、そこから考えることだと思う。同じものを見ていても、何かを読み取ろうとして見ている人と、ただ漠然と眺めている人では、受け取れるものがちがう

これからのみなさんの人生において、よい意味でものの見方を変えてくれるすてきな出会いがたくさんあることを、心から願っている。